蔵の歴史と風土
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蔵の種類

酒蔵、味噌蔵、醤油蔵、漆器蔵など地場産業と結びついたものから、物置(収納)蔵、店蔵、商品蔵、座敷蔵、隠 居蔵、そして外便所を蔵造りにした厠蔵や、隣との境界線と貯蔵を兼ねた塀蔵といった珍しいものまである。その種類の多さから、喜多方はさながら“土蔵文化の博物館”といえる。

蔵の数

喜多方旧市街で二千六百棟あるといわれてきたが、市町村合併後ではその数が四千棟以上だという。固定資産台帳を基にした数字なのでかなり正確だろう。
意外なことに、合併後の方が、一人当たりの蔵の数はわずかながら多くなっている。旧市街に限らず喜多方盆地全体に蔵が多いことが証明されている。

三十八間蔵

全長70メートルの喜多方を象徴する 嶋新の“商品蔵”。喜多方の観光ポスタ一を飾ったこともある。明治15年に完成したという長大なこの蔵には、かつて冬場の農閑期に農家の人たちが副業としてつくった、およそ一年分の商品がうず高く積まれていた。遠く飯豊山麓から背負子に竹細工や藁製品をつめ込み、農家の人々は 7時間もかけて商品を納めに来たという。嶋新商店は今はなく、蔵にはガラクタ品や祭りのための山車などが入っているだけで、近年、蔵の傷みが激しく、修復と利活用が緊急の課題だ。

飯豊の愛

飯豊山系からの豊穣で良質な伏流水と穀物のおかげで、この地方ては、酒・味噌・醤油の醸造業が栄えてきた。それらの産業には温度や湿度が一定に保たれやすい蔵が重要な役目を果たしてきたといえる。

藤樹学

「お上も庶民も、武士も町民も人間はみんな平等で、大いに競いあって財をなすことは、卑しいことでもなんでもなく、むしろ奨励されることなのだ」という中江藤樹の教えが、江戸時代から喜多方には浸透してきた。そのことで商業が栄え、自己主張としての立派な蔵を建てるという文化が生まれてきたといえる。

対抗心

会津藩のお膝元である会津若松への対抗心が表現されている小説「けんかえれじい」が喜多方出身の鈴木隆によって著され、それが高橋英樹主演て映画化されている。そこには、会津中学と喜多方中学のライバル意識が大バ卜ルヘと発展していくというストーリーが描かれている。小説ではなく事実もある。旧制喜多方中学(現・喜多方高校) 設立の時に、第1期生の中に会津中学に通うことをよしとせず、浪人してまでも開校を待ったという強者が何人かいる。島三商店の長島三六さんがその一人だ。町の大きさや知名度からすれば会津若松にかなわないが、経済や文化の面ではひけをとらない。むしろ喜多方の方が 上なのだという自負心が、蔵を建てるという行為に結びついていったとも考えられる。

(出典「蔵を知るミニ百科」 制作 喜多方蔵の会 文 須磨章)