蔵の建造とその背景

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蔵の会の設立の意義は、

  • 先人の残した蔵文化、文化遺産としての蔵の保存とその継承の問題
  • 蔵建造の歴史的思想的背景の調査と研究
  • 維持保存のための関係技術者との連携
  • 蔵の建築構造の理解と修復の為の条件整備
  • 蔵所有者の意識の向上と地域社会への啓蒙
  • 市行政(主に商工観光課、教育委員会)との望ましい関わりの構築など会の組織的な力によって、
    事業の恒常化を図りながら、その解決のため積極的に取り組む

事に大きな意義があると考えている。

市税務課の調査によると、市内に建造されている蔵の数は二千六百余になると言う(平成十八年の市町村合併後は四千二百余)。これらの蔵を建築方法や機能から分類すれば、藩政時代からの土蔵と明治以降の煉瓦蔵に分けられ、農家の蔵には土蔵造りの籾蔵、藁の貯蔵のための蔵、かつての自家製味噌醤油などの醸造蔵、塩蔵として建てられ、数は少ないにしても書院造りの座敷蔵などがあげられる。農村に残る座敷蔵は藩政時代のものとしては少なく、その造りも母屋の外部のみを重厚な土壁とし、内部を簡略化したものがあげられ、なかでも地場産品の保存や制作の必要から建てられた蔵、土蔵の作業場、例えば岩月町杉山の蔵住まいは「菅笠」の生産を家業として栄えた村で、防火と合わせ蓄財が蔵や蔵座敷を建造する契機となった村である。

藩政時代の喜多方は、中央に田付川を挟み西に小荒井村、東に小田付村、西南に塚原村、清治袋村からなっており、小荒井、小田付は早くから市場の開設地として在郷町を形成し、周辺農村を対象とする商業圏を形成していた商業地、幕末には常設店の開設する商人の町となっていた。藩政時代にはすでに建造されていた酒造や味噌醤油の醸造蔵、漆器制作の蔵、米問屋、薬種問屋、質屋、荒物卸問屋、油問屋などの蔵をはじめ、店蔵などが立ち並んだ町であった。市場町屋に蔵造りの多い理由には、藩は幕末、防火に意を注ぐ事から土蔵造りを認可する触れを出しており幕末以降、明治にかけての土蔵造りは明治十三年の大火の経験からいっそう普及することになった。さらに明治三十年以降からの寄生地主制の時代到来は、質屋蔵を始めとして小作米の収納蔵の建築の必要から一段と普及することになった。

ただ蔵造りを普及ならしめた背景は、単なる貯蔵の必要とか、資力の有無、防災からだけの事とは考えられず歴史的思想的背景のあることを無視する事は出来ない。 喜多方地方にはかって藩政時代、近江聖人と呼ばれた中江藤樹(一六○八〜一六四八)の学問、心学(聖賢の書によって心を正しくする学問、真正の学問の意味)が正統派とされる淵岡山の指導下で盛んに研鑽された土地であった。学習の仕方は清座と呼ばれる集会で当地の肝煎や郷頭を中心に農民達の間で歓迎された教えであった。学習で使用されていた旧家の古文書の中には「儒教では道理もなく位を捨てて財宝を捨てるのを大いに嫌っている。天道の理にかなっておれば高い地位に上がろうとどれほど財宝を貯えようと、それは無欲、無妄と言うべく、かなっていなければ位を捨ててもそれは欲であり妄である、すなわち欲と無欲、妄と無妄は行為の外形上の相違でなく、心根の相違の事がらである。」

ここには天道の理に反しなければ財宝を貯え、高い地位につくことも人倫の道に反するものではないとして、経済活動を是認しており、喜多方地方商人の経済観念を育む教えとなっている。この教えは藩政下にありながら一時は禁令によって抑えられた事もあったが、「孝」の教えと合わせ認可され喜多方地方商人や半農半商への支えとなり、やがて高価な蔵造りを誘発する理由となったと考えられる。

(出典 「蔵に育まれた人々 明日をひらく 蔵の会」 文 伊藤 豊松)

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第二章

第三章